国分寺の史跡編
別荘地国分寺と殿ヶ谷戸庭園・滄浪泉園・日立製作所中央研究所
鉄道が開通し、また、西欧の影響からの別荘ライフの流行を受けて、中央線沿線に多くの別荘が建てられました。特に国分寺のはけ上は、濃い緑と清涼な水に加え、富士山を望むはけの高台からの眺望が良いため明治末〜昭和初期にかけて別荘地として利用されました。殿ヶ谷戸庭園(旧岩崎別邸3A)・日立研究所の庭園(旧今村別荘2B)・小金井の滄浪泉園(旧波多野別邸5A)などはその代表的なものです。
殿ヶ谷戸庭園は南満鉄副総裁江口定條が大正2年に建て、その後三菱財閥岩崎家に買い取られ整備されたもので、はけの高低差を利用した和洋折衷の回遊式庭園です。1970年代に商業ビルに建て替えられそうになったとき、国分寺市民の反対運動によって都が買い上げ都立公園となりました。滄浪泉園も同様ではけを利用した回廊式庭園と、マンション建設から逃れて都立公園となった経緯はよく似ています。明治・大正期に三井銀行などの役員を歴任した波多野承五郎によって別荘としてつくられました。
日立中央研究所は、日立に買収される以前は今村別荘仮楽園といい、今村銀行頭取今村繁三の別荘でした。大正7年につくられ園内には農園もあり国分寺市内ではじめてトマトを栽培した場所と言われています。この庭園は年2回(4・11月)一般に開放しています。
史跡武蔵国分寺跡(国指定史跡)
≪武蔵国分寺むかし道≫の中心です。武蔵国分寺(2B)は、天平13年(741)聖武天皇の命により、国家鎮護を祈願して創建されました。昭和31年以降の発掘調査によって寺域が明らかになり、諸国国分寺中有数の規模であることがわかりました。 1333年の新田義貞と鎌倉幕府との分倍河原の合戦の際焼失したと記録されています。金堂・講堂・七重塔・鐘楼・他の遺構が確認されています。現在は各々の礎石が残されているだけですが、広い緑の広場として市民のいこいの場となっています。特に春は桜の名所として国分寺市有数の花見処となっています。
また、街灯が少ないため夜空の星ウォッチングに最適です。焼失の罪滅ぼしに新田義貞が多額の寄進をして1334年に金堂跡に建てられたのが薬師堂(2B)です。約430年後(1751~1763)現在の位置に建て替えられました。本尊薬師如来像は平安末~鎌倉時代初期の制作と考えられ、毎年10月10日にご開帳されます。現国分寺(2B)は真言宗豊山派の寺院で、境内古代代遺跡の出土品などを展示している文化財保存館・万葉植物園・楼門などの見ものがあります。毎年4月に開催される万葉花まつりは、ここを中心に史跡公園にかけて盛大に行われます。境内では甘茶のサ一ビスもあります。
七重塔跡(2B)については、金堂跡よりだいぶ離れているため異論もあるようです。もう少し金堂に近い所にもうひとつ塔の跡が発見され、双方の関連性など調査中です。かつてこの傍で「3億円事件」の犯人が、奪った車と現金を用意しておいた車に積み替えました。
史跡武蔵国分尼寺跡(5A)
史跡武蔵国分寺尼寺跡(IB)は武蔵国分寺跡の西方、府中街道とJR武蔵野線を越えたところにあります。創建は国分寺と同。金堂・尼坊・中門などが調査され、礎石を取り巻く一角を史跡公園として整備してあります。
武蔵国分寺公園~史跡東山道武蔵路
武蔵国分寺公園(2B)は現国分寺背後のはけの森から、多喜窪街道をはさんで広がる公園です。もと中央鉄道学園があったところで、その跡地につくられました。緑以外は何もないところですが広いゆったりとした空間でくつろぎのひと時を過ごすことができます。公園をつなぐ橋からは富士山がよく見えます。この公園の近くに史跡東山道武蔵路(IB)の遺構があります。東山道は都と地方の国府を結ぶ、古代の幹線道路の一つです。歩道部分に当時の側溝の位置と形状が表示されています。
黒鐘公園
国分尼寺跡(IB)の西側にあります。はけを利用した高低差のある公園で、はけから湧き出る湧水で池ができています。
昔、黒金谷で作られた阿弥陀如来の坐像と立像が、武蔵国分寺と国分尼寺に安置されていたといわれています。黒鐘公園の名称はこの黒金に由来するとの説もあります。はけを利用した大きなすべり台など大型の遊具をそなえ子供達の良き遊び場ですが、はけの森を取り入れた緑と泉水池は大人たちにとっても十分楽しめる場です。
お鷹の道遊歩道〜真姿の池湧水群(名水百選 )
はけの遊歩道のメインストリートです。はけから湧き出す清涼な水の流れにそって遊歩道が整備されています。昔、尾張徳川家の鷹場であったことにちなみ“お鷹の道”(2B)の名称がつけられました。遊歩道の周りは、大農家の屋敷林(大けやきや竹林など)に囲まれ古い農家と長屋門や土蔵が点在し、小川の所々には生活に利用した跡として洗い場などが残っています。ひとむかし前の武蔵野のおもかげが色濃く残っている小道です。
中心に位置する真姿の池(2B)には弁財天が祭られ、そのすぐ近くには水源があり、毎朝水を汲みにくる市民の姿が見られます。湧水の流れは、6月末にはホタルが出現することでも知られています。ザリガニなども生息し夏の子供たちのかっこうの遊び場ともなっています。お鷹の道はそのまま現国分寺の前につながり、また、真姿の池から階段状の山道を登ると、はけの森の上に出ることができ、そのまま武蔵国分寺公園につながります。
真姿の池=玉造小町の伝説
848年、業病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒を祈願しに国分寺を訪れました。21日間の参詣の後、一人の童子が小町の前に現れ、池に案内し沐浴を勧め、姿を消しました。小町がその通りにすると、病は消え元の美しい姿に戻ることができました。真姿の池の名の由来です。
伝鎌倉街道
鎌倉時代に鎌倉と上野国・信濃国方面を結ぶ主要道路のひとつで、はけを切り通しにしています(1B)。この時代、恋ヶ窪は宿場町でした。遊郭もあり、そこの遊女と武将畠山重忠との悲恋の話なども生まれました。保存されているのは、わずかな距離ですが、切り通しの雑木林に縁どられた道は当時のおもかげを偲ぶことができます。この道沿いには、国分尼寺の他、古代の遺跡や鎌倉時代の寺院(伝祥応寺)の遺構なども残っています。
姿見の池遊歩道
≪むかし道≫を経て国分寺駅より西国分寺駅に着いた後、この遊歩道(2B)を歩いていくと再び国分寺駅にたどりつきます。時間に余裕のある方の回遊路として利用できます。姿見の池(2B)は武蔵野台地のなかの窪地にある湿地帯で、鎌倉時代初めの武将畠山重忠に愛された恋ヶ窪遊郭の夙妻太夫が身投げした伝説が残っています。遊歩道の北側は日立中央研究所の庭園と樹林です。
鉄道:中央線と国分寺
軍隊の移動と物資の輸送を担う鉄道建設は日本の近代化にとって重要なものでした。その方針の下、更に、山梨県内の物資を東京に運ぶ目的もあって、中央線は明治22年(1889)に新宿=立川間に開通しました。立川駅・国分寺駅・武蔵境駅はこの時に開業しました。ちなみに、武蔵小金井駅は大正13年(1924)玉川上水の桜を楽しむ人々のために仮乗車場として開業、国立駅は大正15年(1926)、西国分寺駅は昭和48年(1973 )開業。
ところで下河原線というのがあったことを覚えていますか?国分寺駅から東京競馬場前駅までの旅客線と、競馬場前駅の少し手前から分岐していた下河原駅までの貨物線から成っていた中央線の支線です。多摩川の砂利を運搬する目的で「東京砂利鉄道」として1910年に開業しました。その後1921年に一旦廃止されましたが1933年東京競馬場が開設されたことから、そのアクセスのために旅客線として再開されました。武蔵野線が開業された時、その機能を武蔵野線に譲る形で1973年再度廃止されました。
また、国分寺には鉄道学園があり、鉄道省による「東京鉄道教習所」として開設され、戦後国鉄による「中央鉄道教習所」に受け継がれました。構内にはSLを走らせる設備もあり、広大な敷地を持っていましたが、国鉄民営化の際処分され、その一部が現在の武蔵国分寺公園となりました。東山道武蔵道が発見・発掘されたのもその時です。
野川と橋
はけの湧水を集めて流れる清流が野川です。70歳ぐらい以上の人達にとっては野川で泳いだり鯉や鰻を取って遊んだ記憶とともに、一方では大雨の度にあふれて大変な想いをしたりと、国分寺に住んでいた人々にとっては良くも悪くも生活に密着した川でした。
野川には数多くの橋がかかっていて、それぞれ特徴的な名がついています。上流から、押切橋・あやめ橋・緑橋・不動橋・一里塚橋・もみじ橋・丸山橋・平安橋・長谷戸橋・鞍尾根橋。不動橋(3B)はかなり昔からある橋で、以前は石橋でした。1832年石橋供養塔、1745年庚申塚、1913年用水堰の記念碑が設置され、橋の袂に残っています。鞍尾根橋(4A)も古く、湿地のぬかるみとそれに続く急坂のため、馬を引いて通るのが大変だったところからこの名がつけられました。
銃からロケットそして早実が来た
東経大(4A)から早実(4A)にかけての地は、戦前は大倉財閥系の兵器工場=南部銃製造所でした。戦後、一部は大倉喜八郎創設の東経大の敷地となり(1946年)、一部は新中央工業となりました。1955年日本初のロケット発射実験がこの場所で行われました。超小型のものを水平に飛ばすというもので、ペンシルロケットと呼ばれました。その成果はアメリカNASAの宇宙開発にも利用されています。その後、この地は新日鉄グランドを経て早実となりました。ハンカチ王子斉藤君の活躍でなしとげた甲子園優勝は記憶に新しいところです。
小金井 地名の由来
小金井の由来については二つの説があり、一つは市のはけ(崖線)の南側を金井原と呼んでいたものを「こがねはら」と読んだと謂うもの。もう一つは、はけに沿って黄金(こがね)に値する豊富な湧水を「黄金の井」や「こがね井」と称したという説です。現在もこの豊かな湧水は健在で、湧水を使ったコーヒー屋やパン屋など、はけの周りにに点在してます。
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