国分寺の歴史編
国分寺の原始遺跡(~2千年前)
見晴らしがよいはけの高台は、原始の人々にとって絶好の居住地でした。
旧石器時代(3万5千年〜1万2千年前)国分寺市内では、はけのきわの地中50cmから3m下に遺跡が存在します。縄文時代(1万2千年〜2千300年前)縄文文化の最盛期である縄文中期(5千年〜4千年前)の集落跡がはけ上に多く残っています。多喜窪遺跡(1B)・武蔵台遺跡(1B)・恋ヶ窪遺跡などが発掘され、この出土品は現国分寺境内にある文化財保存館(2B)などに展示されています。
武蔵台遺跡公園には当時の縄文人の住まいの跡が保存されています。弥生時代(2千300年〜2千年前)人々は、稲作に適さない国分寺市内から多摩川に近い地域に移ってしまったようで、ほとんど遺構は残っていません。
古代(2千年前~800年前)
国分寺一帯はおおむね原野でした。
ここに、古代の幹線道路で都から武蔵国府に至る東山道武蔵路(1AB)が通っていました。
さらに国府から近く、四神思想にかなうという理由から武蔵国分寺の僧寺(2B)と尼寺(1B)が建立されました。
中世(800年前~450年前)
恋ヶ窪村と国分寺村を除くとほとんど原野でした。
武蔵国分寺はまだ健在で、それなりの活動をしていたと思われます。この当時には東山道に代わって、北関東と鎌倉を結ぶ鎌倉街道(1AB)が通っていました。今でも鎌倉街道の切り通しの跡が残っています。恋ヶ窪は宿場町であり、遊郭もあったと伝えられています。
この地が大きく変化するのは鎌倉時代末の新田義貞による鎌倉攻撃の時で、分倍河原の戦いそして新田義貞の敗戦、戦火による武蔵国分寺の焼失でした。小金井村の鎮守である小金井神社(6B)は1205年創建、菅原道真公を祭り天満宮と称したのがはじまりといわれます。貫井神社(4A)の創建は1590年と伝えられ、かっては貫井弁財天と呼ばれていました。雨乞いすると必ず雨が降ると言い伝えられています。
近世(450年前~140年前)
徳川家康が江戸に城を構え関東の支配者になると、鎌倉街道よりも、東の江戸に向かう江戸道が重要性を増しました。江戸時代中期、幕府による新田開発の奨励と、玉川上水の開削のもとで原野の開墾が一気に進み、分水路も整備されて、それまで国分寺村と恋ヶ窪村の2カ村だけであったものが、8新田が加わり10カ村となり、芋・麦・雑穀が栽培されていました。
新田開発は武蔵野の平坦地に畑や雑木林を出現させました。また大農家の屋敷林も整備されましたが、はけは斜面地のため耕作には適さず雑木林として薪や堆肥の材料を得る場所として残されました。国分寺村は江戸時代中期から尾張徳川家のお鷹場となっていましたが、鹿や猪などによる被害が大きく、後に御林(幕府所有地)を払い下げてもらい、畑に開発しました。
近代(140年前~60年前)
明治時代に入ると、輸出用に養蚕に精を出すようになり、畑は桑畑に変わりました。生産された生糸は八王子の市場に持ち込まれました。この頃の名残として国分寺の農家には養蚕にちなむ屋号が今でも残っています。明治22年(1889)鉄道が開通し、国分寺の状況も大きく変わってきました。富豪たちの別荘地として好まれ、また、国分寺駅東側には大倉財閥の経営する軍需工場(南部銃などを作っていた(4A))や鉄道省の東京鉄道教習所(2A)もできました。
現代(60年前~)
高度成長期とともに開発と宅地化の波に襲われ東京都心のベットタウンとなっています。それでも他の地域に比べれば、はけの雑木林や農地、史跡のおかげで緑と花に恵まれた街となっています。戦後、養蚕はなくなり野菜畑と柿・栗の果樹園・植樹園が主流となり、それらと今なお残る農家の屋敷林がさらに緑を豊かにしています。それでも年々緑が減って宅地化が進んでいます。
小金井市は長年かけて野川の自然を取り戻し、はけの森も指定緑地として保護するようになりましたが、国分寺市では武蔵国分寺跡周辺を除き、立ち遅れているようです。中央線沿線に広大な敷地を持っていた軍需工場跡地は東京経済大学(4A)と早稲田実業学校(4A)に、鉄道学園跡地はマンション群と武蔵国分寺公園となりました。国分寺駅には駅ビルが建ちマルイとLホールが入っています。現在中央線の駅の中では立川・吉祥寺につぎ、3番目に乗降客の多い駅となっています。長年計画されていた北口再開発もいよいよスタートしますが、国分寺はさらに大きな変革期を迎えているようです。
